聖日礼拝とは

「礼拝」について

聖日礼拝-説教
 礼拝は一週の初めの日に行うことになっており、週の生活の一切の初めです。心構え(動機)を正し、神に礼拝を捧げることによって私たちの一週間の歩みに勝利をもたらします。
 私たちにとっての「日曜日」は、6日間働いてホッと安どする「休息日」なのではなく、一週間を清く新しく出発するための「聖日」なのです。
 ドイツに「神が教会をお建てになると、悪魔がそばで礼拝堂を建てる」ということわざがあります。
 このことわざの前半部分は私たちに真の礼拝の必要性を示し、後半部分は自分を喜ばせることに傾く私たちの心の問題を示しています。こうした失敗を犯さないために、私たちは絶えず反省してみましょう。
 心と信仰生活の問題は、人が神の前にひざまずくことなしには成り立ちません。礼拝は自分を喜ばせる場ではなく、心、時、財、からだ(精神・人格・生活)を神に捧げる時間なのです。

 

どなたでも参加できます

 礼拝は信仰の中心です。
 聖日(日曜日)には神様の前に礼拝し、新たな一週間の出発をしましょう。

◆聖日礼拝
 毎週日曜日 AM10:00~ 場所:宇都宮教会 礼拝堂

 宇都宮教会の聖日礼拝に参加してみたい方はこちらよりご一報をいただけますと幸いです。

聖日礼拝風景

 

聖日の意義

聖日の由来

 “聖日”について、まずはその由来を知って頂きたいと思います。
 旧約聖書では“安息日”と言っていますが、それは土曜日のことです。すなわち、その日は神様が天地万物を創造して7日目に休み給うた(創世記2章2節)というその7日目のことで、神様はその日を祝福して聖別した(創世記2章3節)、そこに由来しているのです。

 出エジプト記16章23節を見ると、こう書いてあります。

モーセは彼らに言った、「主の語られたのはこうである、『あすは主の聖安息日で休みである。きょう、焼こうとするものを焼き、煮ようとするものを煮なさい。残ったものはみな朝までたくわえて保存しなさい』と。」彼らはモーセの命じたように、それを朝まで保存したが、臭くならず、また虫もつかなかった。モーセは言った、「きょう、それを食べなさい。きょうは主の安息日であるから、きょうは野でそれ(マナのこと)を得られないであろう。6日の間はそれを集めなければならない。7日目は安息日であるから、その日には無いであろう」。ところが民のうちには、7日目に出て集めようとした者があったが、獲られなかった。そこで、主はモーセに言われた、「あなたがたは、いつまでわたしの戒めと、律法とを守ることを拒むのか。見よ、主はあなたがたに安息日を与えられた。ゆえに6日目には、ふつか分のパンをあなたがたに賜るのである。おのおのその所にとどまり、7日目にはその所から出てはならない」。こうして民は7日目に休んだ。

 これは出エジプト記において、イスラエルの人々が神からマナ(神がモーセの祈りに応じて天から降らせたとされる食物)を与えられるところです。ここを読むと、神の聖別したこの安息日とは如何に貴いものであるか、ということを知ることが出来ます。その安息日に相当するものが、今日の私たちの日曜日です。

【注】ユダヤ教は第七日目(土曜日)を安息日として守りましたが、キリスト教ではイエス様の復活した日(日曜日)を記念し、第一日目を聖日として守るようになりました。公式的にはニケア会議(AD325)で決定されましたが、すでに使徒時代からキリスト信者らは、主の復活を祝うために一週の初めの日に集まっていました(使徒行伝20:7)

聖日に何をするか…

聖歌隊
聖歌隊

 では何故そんなに仕事をするなと神はおっしゃるのでしょうか。
 出エジプト記の16章、または20章8~11節に記されているように、イスラエルの人々は本当に神を畏れました。(おそれる:自分よりはるかに力のあるものを尊い、怖いと思う気持ち。かしこまること。)
 仕事をするなということは、神の前に出る準備としてその”畏れ”を持たせるようにするためなのです。安息日を守れということを神様は石の板に刻んだ十戒の中で重ねて語られています。聖日にはそういう心の準備が大切なのです。

 また、レビ記23章23節には以下のように記されています。

主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『七月一日をあなたがたの安息の日とし、ラッパを吹き鳴らして記念する聖会としなければならない。

 このように、「安息日であり、聖会である」と書いてあります。すなわち聖日には集会(=礼拝)を開きなさいということです。

礼拝の目的

 聖日には神の民たちが集まって会を開き、神を礼拝する訳ですが、この会の目的について更に詳しく学んでみます。

 まず神に選び出された者たちがその会に集まってきた時に、神は何と仰せになられるでしょうか。
 神は生きていまし給うからには、語り給う方であります。何と語り給うたかということを聖書をひも解いてみましょう。

 申命記4章10節には、次のように記されています。

「あなたがホレブにおいて、あなたの神、主の前に立った日に、主はわたしに言われた、『民をわたしのもとに集めよ。わたしは彼らにわたしの言葉を聞かせ、地上に生きながらえる間、彼らにわたしを恐れることを学ばせ、またその子供を教えることのできるようにさせよう』。」

 このように神は、御自分だけをあがめるように、「慕い奉れるように訓練する」と、すなわち「神の民をつくりあげるために」と、仰せになられた訳です。

神のみ言に対して讃美を捧げる

 集められた者は、そこで何をするかというと、「神かく語り給うた」というその説教に対して、神を賛美します。祈ることも大切ですが、賛美が主でなければなりません。
 また、「神は賛美の中に住み給う御方」ともいわれています。礼拝において神を賛美することはとても大切なことです(詩篇22篇22節)。

献金の意義、注意

 一週間働いたら、その報酬が与えられている訳ですから、そのうちの一部を感謝の思いを込めて神の前に捧げるということは大切なことです。ですから、献金というものは、礼拝のその場で出すものではなく、日頃からその日の為にとっておくものなのです。
 パウロは、コリント人への第一の手紙16章2節で、次のように語っています。

「私が行ってから、おまえたちは急に集めることのないようにしなさい。今から集めておいて、私が行った時に神の前に出しなさい」

 献金はヤコブの十一条(創世記28章22節)から来ていますが、マラキ書3章10節にも献金の基本について書いてあります。

「私の宮に食物のあるように、十分の一全部を私の倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。」

 献金の場合は、神を試みてもよいというのです。聖書の中で神を試みよというのはここだけです。そうすると神は祝福して下さるというのです。
 これが献金の基本的な内容です。
 
 
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